選挙が終わるまでは息をひそめ、待ってましたとばかり、選挙最終盤に出してきた、戦争立法。
その憲法違反の中身とともに、国民の声を聞かず強行するやり方は、辺野古基地建設強行の手法と同じです。
私の選挙での訴えも、25日には、その緊急事態を受け、ガラリ、変わらざるを得ませんでした。
中学校給食も、こどもの医療費無料化枠の拡大も、大事な大事な問題。
けれど、それは、大前提が、平和な世の中であってのこと。母乳が出ない、薬がない、助かる命も助けることができなかった、その、悔やんでも悔やみきれない、戦中・戦後の思いを、ふたたび、母と子にさせてはならない。
給食署名に賛同してくれたかたたち、学童保育の運動をしておられるかたたちをはじめ、様々なかたたちのお力で、こどもが生き延びられない戦争立法にNOの意見書を国にあげられる市議会を作らせてと、最終盤では訴えました。
東京土建一般労働組合のHPに載っている、ぼくら「小国民」の戦中・戦後体験 から、以下、掲載させてもらいます。
戦時中子どもは「小国民」と呼ばれていました。終戦当時、上は16歳から下は10歳まで小国民だった仲間に戦中・戦後体験を書いてもらいました。お腹をすかせ、学徒動員で働き、180度教育がかわるなど、その後の人生に及ぼした影響は大きかったようです。
* 弟が食糧不足で餓死/まくらの中のキビまで食う
【江東・大工・杉浦敏郎記】戦後わが家でも食料の確保に走り回る毎日で、17歳の長男以下5人の食べざかりの子どもと一家7人を養う両親の苦労は今も忘れられません。
終戦後3年目のことです。わが家は食べるものがまったくなく、コメの配給は10日先、その日は朝と昼は欠食し思案にくれていると、兄が「そうだ」と叫び、奥から黒光りするまくらを引っぱり出してきました。中のキビを臼でひきパンを蒸すんだといいます。
家中がかたずを飲んで蒸しあがるのを見つめましたが、その臭いこと臭いこと、鼻をつまんでも食べられません。四男(小2)だけはもくもくと食べ、捨てた記憶はないから誰かが食べたのでしょう。
北海道の開拓時代から使ってたくさんの家族の汗と油が染みついたこのまくら、数十年のくらしを吸収した生き証人ともいえます。今でも兄弟が集まると「まくらパン」は話題の主役です。
それとともに生後10日余りで餓死した六男のことは忘れられません。母乳が出ないため、おも湯やいも飴を溶かした汁は、いやいやし泣くばかりでした。後日山羊を飼う農家を知りましたが後の祭り。弟の口の中に指を入れたとき、乳首と思ったのかチューチューと強くすいついた感触が今も残っています。
おも湯で10日を生きた弟、「乳がほしい、ぼくも生きたい」と叫んでいたにちがいない。牛乳さえあったら、母乳が出たら、後悔と自責の念が今もつづいています。